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シベリア抑留を語り継ごう―特措法後の課題

                              

 シベリア抑留とは、1945年8月9日のソ連参戦により、正確には8月23日の国家防衛委員会(議長スターリン)命令に基づき、日本軍将兵ら(軍人・軍属の朝鮮人、中国人や満洲国政府の官吏を含む)約60万人がソ連各地(極東、シベリアのみならず中央アジアやグルジア、ウクライナまで)及びモンゴルに連行され、強制労働に就かされたことをいう。ポツダム宣言に捕虜の「すみやかな送還」が謳われていたにもかかわらず、大多数は3〜4年間、戦犯容疑者は1956年の日ソ国交回復まで抑留され、うち約6万人が飢えと寒さと重労働により帰らぬ人となった。

 シベリア抑留は、ある世代以上にとっては「異国の丘」(歌謡と映画)、三波春夫(演歌歌手)や水原茂(プロ野球選手)らの名とともに記憶され(宇野宗佑元首相も抑留者)、体験者の回想記は私家版を含めて2千にのぼるという。しかし、抑留者の総数、死亡者の数と氏名すら未だ確定されず、遺骨の収集と特定も十分ではない。厚生労働省によれば、死亡者約5万3千人のうち、送還された遺骨は約1万9千柱で、千鳥ヶ淵戦没者墓苑に納められたままの遺骨が約1万柱だという。

 2010年6月16日「戦後強制抑留者に係る問題に関する特別措置法」が成立し、生存する元抑留者は「労苦を慰謝するための」特別給付金を、帰還の時期に応じて(25万〜150万円)受け取ることになった。特別給付金は、抑留者団体が長らく求めてきた「労働の対価」支払いでも、それに代わる政府による補償でもなかった。国は抑留協力責任(関東軍首脳が「労務提供」を示唆)も労働補償責任も認めていないが、それでも一つのステップだと全国抑留者補償協議会(全抑協)は評価した。

 特措法が不十分なのは、「国の責任」を明確に認めた補償ではない点だけではない。給付金受給資格者が日本国籍を有する者に限定されたため、日本軍の軍人、軍属だった朝鮮人、中国(台湾)人が除外されたという大きな欠陥がある。また、「特別措置法」はソ連・モンゴル抑留者を対象にし、満洲、北朝鮮、南樺太の地でソ連軍によって抑留された人たちを除外しており、いずれも当事者たちが適用を求めている。

 2011年8月5日「強制抑留の実態調査等に関する基本的な方針」が閣議決定された。特措法第13条に定めた抑留の実態調査に関する基本方針を決めたものである。それは「1 実態調査等に関する基本的方向」、「2 次に掲げる措置の実施に関する基本的事項」(死亡者調査、遺骨及び遺留品の収容・送還等、抑留の実態解明)、「3 抑留に対する国民の理解を深め、体験の継承を図る事業、抑留死亡者に対する追悼事業」など7項目から成っている。

 この5日当日、シベリア抑留者支援・記録センター(全抑協の後継団体として2011年4月発足)等が、細川厚労相に面会して要望書を提出した。「国が主催してシベリア抑留犠牲者の追悼式典を」、「充実した利用しやすい資料展示館に転換を」(新宿の「平和祈念展示資料館」を改組し、千鳥ヶ淵戦没者墓苑付近に移転を)、「現地に専門家を送り、調査を進めるとともに成果を共有し、次世代に継承を」の3点である。第3点については、専門家による資料や証言の収集・調査、日露双方の専門家による研究交流や歴史教科書への記載、1991年の捕虜に関する日ソ協定(抑留中死亡者名簿や埋葬地に関する資料の提出、遺骨及び所持品の引渡し、埋葬地の保存、墓参の実施など)の見直しを求めている。

 このように、シベリア抑留問題はなお現在進行中の問題である。しかし、元抑留者で生存している人はもはや平均88歳、7万名にまで減り、解決が急がれる。元抑留者たちは、シベリアで死んだ仲間のことを知る術として、回想記くらいしか持っていない。厚労省が引揚援護庁から引継いだはずの「復員個人票」(身上報告書)も、ロシアから引渡されて保管している「個人登録簿」(約51万名分)も、その後引渡された「登録カード」(約70万名分)も個人情報保護法を口実に、本人と縁者以外は閲覧できない。

 ロシア側も、右「個人登録簿」「登録カード」以外の公文書を引渡していないため、回想記と引揚援護庁が舞鶴等で行った聞取り調査の記録だけでは抑留の全貌は明らかにならない。ようやく2000年代に抑留全般に関わる(ドイツ人等を含む)資料集が出版されたが、内務省捕虜・抑留業務管理総局の基本的指令や地方の捕虜収容所当局の公文書の一部を収録しているに過ぎない。日本人研究者でモスクワのロシア連邦国立公文書館、ロシア国立軍事公文書館、ロシア連邦外交政策公文書館などで閲覧した者は少ないし、アクセスを許されていない公文書館もある。私はイルクーツク、ハバロフスク、コムソモリスクの墓地、記念碑を巡り、公文書館で収容所の実態がより分かる公文書を閲覧して、初めて本格的研究に着手したことを実感した(2011年)。

 抑留の全容解明には、日露両国の研究者の協力が不可欠である。ようやく最近になって、研究の上では先行しているロシアの研究者との協力関係ができつつある。シベリア抑留は「ソ連の誤り」と1990年に主張したキリチェンコ博士、全抑協斎藤会長の秘書も務めたカタソーノヴァ博士、2011年10月東京でのシンポジウムで報告したクズネツォーフ博士(イルクーツク)である。『カラガンダにおける日本人捕虜』という大著を2011年に刊行したカザフ人研究者グループも共同研究を求めている。

 抑留研究は、日本軍将兵のソ連抑留を研究するだけでは不十分で、ドイツ人等のソ連抑留と、また日本軍将兵の南方抑留と比較することも重要である。このため「シベリア抑留研究会」(2010年12月発足)には、パイオニアであるジャーナリスト、ソ連史の研究者だけではなく、日本史の研究者も加わっている。

 抑留研究はまた、日本社会(軍隊という社会、引揚者を迎えた社会)を知るために必要なばかりか、スターリン統治下のソ連を知るためにも役立つ。捕虜収容所は既存の矯正労働収容所をモデルに設置、運営されたからであるが、他方で、抑留者と周辺住民との交流の中に「恐怖政治」イメージだけでは捉えられない末端社会の実相を垣間見ることができるからである。

 抑留問題を若い世代に伝えることも大切である。東京の資料館のことは触れたが、舞鶴の引揚記念館等も含めた連携と充実が求められている。香月泰男をはじめとする抑留画家の展覧会、『異国の丘』『帰国(ダモイ)』等の古典的作品と『帰還証言・ラーゲリから帰ったオールド・ボーイたち』(いしとびたま監督)のような新作の映画、漫画『凍りの掌』(おざわゆき作)など、書籍以外のメディアも重要であろう。 (富田 武